眠らない

おなかがすいたらクッキーやこう

きょうおもったこと

チェンソーマンゆめにキャラクタがでてきてから前より少しきになるようになったんたけど、アニメに力が入ってるというのはちらほら目にして、そうなんね…と思ってたけど、Twitterに出てくるアニメの1シーンの画像とか、何枚か見る限り、絵が本当に違いすぎないか?というのが気になる、「やっぱりそうなってしまうのか」みたいな感情になる なんでここで失われるものをだれも気にしないのか?すごく不思議 それを削って、まったく関係のない人工物を足した方がよりよいものになると、みんなが思っているということだよね?

なんかフォロワーの多い同人作家の絵みたいになってる フォロワーの多い同人作家への悪口の意図もアニメつくってるかたがたへの悪口の意図もありません

自分が好きだったり、自分の中にあるから共鳴しやすい絵の要素の中のひとつが、極端に失われてるように感じることに、悔しさとか恐怖を覚えてるだけかもしれなくて、ちょう身勝手な話だとは思う

ほんとうに読んだことないが、チェンソーマンはなんとなく私の世代がすごく馴染みやすい絵というか作者と通ってきた作品がいくつか共通してそうな印象、年代的な親近感みたいのを絵から勝手に感じていたりしたのはあるので、なんか余計と…、わざわざブロギに書くことなのかよくわからないけど、なんなのか?、?、?と、すごく不思議に思いました

 

あとは猫の恩返しのデーブイデーやビデオでみれる、ギブリーズというアニメガチで本気で好きで5兆回は見てた(保育園のとき?)から、音楽を聴くとものすごい郷愁ととにかく明るい、やわやわのかんじょうにつつまれるから、わたしが吸血鬼になって人を襲ったときは十字架じゃなくて、ギブリーズのテーマが効くだろうな、と思いました

その際はよろしくお願いいたします

 

 

これかいたよるにおもったけど、ミリのアニメがいままでのとちがって、ちょっと少女漫画ぽくて、女の子向けみたいなテイストになったのは良いなと思ってたから(ミリの絵は好きだけど、絵柄に個人的な強いこだわりはないし、アニメの感じはミリの新しい一面というか新しい解釈だなと思って嬉しかった)

漫画家の人が、作品作るにあたって 自分だけの空間みたいなのをそこに吹き込むと思うのだが そこが無意味に完全に、無視するという形で埋めたてられてると感じる、勝手に感じているだけほんとに勝手に感じてるだけだけど、そこが怖いと思ったんだなと思いました

 

でもこれもう一段階あとにおもったけどちょとまえに、本読んでたとき、個人の心というのは完全に表現して、完全に他人に伝えるということができないから、存在していると断定できない、ということは個人の心というのは存在してない、みたいなのを見て、なんかいいなと思ったんだけど…光が、いろんな場所に大きく伝わるのは、個人が消えていくということなのかな もしかしたらそうかも…と思った

ここらへんよくわからない、コミュニケーションというか、関係の話だとおもうんだけどそういうの人生に無かったすぎてわからないな

よくわかんないね